今だから身につく!都知事から学ぶリーダーのあり方
学ぶべきものは何か?
「いまさら何を学ぶの?」という声が聞こえてきそうですが、学びはたくさんあります。なでもかんでも重箱の隅を突っついて要職に就いている人の足を引っ張る、あるいは辞任さえすれば済む、という風潮は好きではありません。しかし違法でなくても不適切とされるものが数多く出てきた時点で税金を活用する立場のトップはやはりアウトだと思います。
組織のトップにある立場の人の「あるべき姿」を、知事が現役でいる今こそ、他人事ではないものとして優秀な反面教師として考えてみたいと思います。そもそも、なぜ知識も経験も優秀な頭脳もあるはずのリーダーがここまで突っ込まれるようなことをしてしまうのでしょうか?最初からそういう一面を持っていたのか、徐々にそうなってしまったのかはわかりませんが、小国の首相にも例えられる東京都知事の権力は魅力を通り越して魔力を持っているといえそうです。
諫言
一言で言うなら自分を強烈に律する心、自制心、自浄能力がなければ、その権力からくる魔力に静かに侵食されていくのではないでしょうか。どんな組織でもそのトップの個性や実力が強烈であるほど物を言うこと=諫言はできません。下のものが安易に上司に向かって「それは違います」といえば、弾き飛ばされるのは自分だというのは明々白々です。
中小企業の経営者が社員に「なにかあれば遠慮なく言ってほしい」「ガラス張りの経営を目指している」「会社をよくしていきたいので積極的に意見してくれ」などと伝えているにもかかわらず、本当に言われると途端に機嫌が悪くなる方が少なからずいます。大体その意見は自分の触れて欲しくないこと、こだわっていることであることが多いからです。それが現実です。痛くないところの意見、自分が欲している意見だけを出して欲しいというのは虫が良すぎます。会社は経営者以上の器にはならないといわれる理由の一つがここにあります。
黒田長政が父親である官近衛(如水)には叶わないことを悟った時点で、お家発展のために諫言制度を設けたことは有名ですが、こうした仕組みをいかに組織に根付かせるかも組織の風通しをよくする第1歩であり、経営者の暴走の抑止力になることでしょう。
諫言の実践
経営者の器を大きくする修行でもあるこの諫言制度はQMの「喜びの帝王学」にでも活用されています。実際に研修に参加された多くの経営者が社内での諫言に挑戦されています。今の会社に対して、経営者である自分に対して、思っていることを自由に言ってよい、と伝えます。個人が特定できるものにすると内容にブレーキがかかるので、無記名で提出させてスタートするケースが多いようです。
幹部と若い社員とではレベル経験も違うのでいろんな意見がでます。ここぞとばかりに好き勝手を並べ立てる社員のコメントにへこんだり、腹を立てる方もいます。給料が安すぎる、から始まり、社長の話が長すぎるとか、どういう方向へ進もうとしているのかさっぱりわからない、もっと話を聞いて欲しい、場当たり的で長続きしない、等など。忍の一字でぐっとこらえてそのまま終わらせず、きちんと咀嚼しながら整理して改善案をだしたり継続課題としたり、個人面談を行ったり、出てきた案に対してきちんと取り組む態度を示すことが大切です。
こうした取り組みを定期的に行うことを通して会社は何かを変えようとしている、社長は本気なんだという気持ちが少しずつ浸透していきます。いままでとは違う文化や習慣を取り入れて組織を変えていこうとするからにはまず自分が変わることが大切です。そうしたリーダーの姿勢に部下はついていきます。
「与える」から始まる
これは喜びの帝王学の本質ともいえる「与える」「与え続ける」世界に通じることでもあります。相手に喜びを与えることを続けていれば、自らの喜びとなって返ってきます。心理学でよく使われる言葉「鏡の法則」ともいえますし、松下幸之助翁で有名な「たらい理論」でもあります。相手に関心を持てば相手も関心を持ってくれますし、相手に喜びを与えて、たらいの水を向こうへ押し出せば水がぐるっと回って自分の元に帰って来る・・
こうした「与える」世界を様々な角度から持つことで自らも組織も成長できるのです。目の前にいる相手に対してどうすれば喜んでくれるか、どのようにお役に立つか?という思いを与える、相手に関心を持ち意見を聞く機会を与える、相手が奮い立つ勇気をも持てるような表現を磨き言葉を与える、行動やかたち、商品を通して目の前に広がる喜びを与えるなど、与える世界にもいろんな展開があります。
このような発想が自身の思想の中心軸として打ち立てられるならば自身の器が大きくなります。せこい発想に侵食されることなく、リーダーとしての大道をまい進できるのではないでしょうか。
世界三大聖人といわれるキリスト、釈迦、孔子・・彼等が説いてきた愛も慈悲も恕も一言で言うなら「与える」という発想に集約されます。そして太古の昔とは豊かさも文化も全く違う、便利で発達した現代でさえも聖人たちの教えが息づいているのは「与える」ことの難しさを物語っています。
今回の騒動はギブ(与える)ではなくテイク(採る)しか感じられないリーダーはどんなに頭脳が優秀でも危ういということをも学ばせてくれていいます。わが身を振り変えって反省できるできるよい機会と考えてみてはいかがでしょう。
上記の記事は弊社の根幹となる哲学「喜びの帝王学」を基にしています。