心配りの落とし穴
ホスピタリティとは一般的に心配り、おもてなしとされています。そしてそれは相手に受け入れてもらえてはじめて存在するものでもあります。他の人がやらない奇抜なことをやりさえすればよいというものではありません。普段からどうすれば喜ばれるかというセンス、勘どころを磨くことが大切です。ひとつ間違えるとドン引きされることになりかねません。
以前、私が体験した出来事です。知名度の高い、いわゆる一流に属するホテルからタクシーに乗りました。子供が幼児だった頃のことで、何かタクシーに乗る必要性があったのです。車寄せにタクシーがいなかったので、タクシーを手配していただきました。ロビーで待っていると数分後にタクシーが到着しました、という連絡が来たので車寄せに行くと一台の個人タクシーが来ていました。
乗ってみて驚きました。決して奇麗とは言えない安っぽい造花が車内にふんだんに飾り付けられていたのです。第1印象は邪魔、そしてうっとうしい、でした。ドライバーが明るく迎えてくれればまだ救われましたが、とても暗く無口だったため室内全体の空気が息苦しくなり、なんとも言えない不快感がありました。子供はまだ2歳だったと思いますが、そうした空気を敏感に察知してぐずりだしました。妻も同じことを考えていて早く降りたかったと。ドライバーにしてみれば思いきり気を使ってチャレンジをした結果なのかもしれませんが、今でも鮮明に思いだす痛い出来事です。
極端な例かもしれませんが、的を外すというのはこういうことです。客の立場では仮にドン引きしてもわざわざ言葉にしてフィードバックすることは少ないので、そのままの状態が続いたりするのです。結果として、このようなタクシーの乗り入れを許しているホテルの印象も悪くなりました。
心配りのつもりであっても他人がやらない奇抜なアイデア、新しいことにチャレンジする際は第三者に確認してもらわなければなりません。さらに言えば理解者・協力者を持たねばなりません。ホスピタリティが「せいいっぱいのおもてなしの心」であるならば余計にそれが的を得ているかどうかを吟味する必要があります。
センスは思いつきで磨きあがるものではなく、徐々に磨かれていくものと考えるべきです。「量は質に転化する」という言葉があるように、試行錯誤しながら情報収集と加工、行動を繰り返して喜ばれるセンスを磨かねばなりませんね。
上記の記事は弊社の根幹となる哲学「喜びの帝王学」を基にしています。